2012/7/21 「人間国宝」新認定 | 好雪録

2012/7/21 「人間国宝」新認定

昨夕発表されたとおり、古典藝能分野で山本東次郎と坂東玉三郎の2人が今年度新規に「人間国宝」に認定される運びとなった。
女形という特殊な生(セイ)を選択し生き続けた点で間違いなく真実の存在たる玉三郎は、その意味で後進に範を垂れる最後の適任であろう。また、現在75歳という年齢を考えれば10年早く指定されて当然の東次郎は真の意味で古典伝承の最右翼、斯界の誰もに異論はあるまい。

こうして「人間国宝」というものに世間の注目が集まるのは良いことだが、次の点は押さえておくべきだと、私は考える。
文化財保護法の概念によれば、「重要無形文化財保持者(各個指定)」(=通称「人間国宝」)とは「重要無形文化財に指定される芸能を高度に体現できる者」とされる。
だが、現実にこれを検めれば、絶対的に突出した個人が指定されている例もあると同時に、相対的に「何となく」決められたとしか思われない例もある。

つまり、「人間国宝」と決まった人ばかりを至上の価値ともて囃すほど見えにくくなる「人間国宝の実態」もある、ということだ。

能楽分野では長らく、「同分野同流儀につき1名」という不文律が存在するかのように思われていた。たとえば「和泉流狂言方として1997年に現野村萬が指定されている限り同流で他の認定者は出現しえない」ということだ。
その「不文律」は2007年に野村万作が指定されたことで大きく崩れた。一種の驚愕と言ってもよかった。
今回の山本東次郎の場合、大蔵流狂言方の人間国宝として現茂山千作が存命中であるものの、彼は既に舞台に姿を見せなくなった。その意味で東次郎が同流狂言方の実質的追加指定という性格を見取ることもできるのだが、揃って和泉流狂言方の萬・万作兄弟は現在もそれぞれ活躍し続けているからそうではない。
こうなると、たとえば、「高安流大鼓方として現能楽界のレベルを大きく支える柿原崇志はなぜ安福建雄に続いて認定されないのか」「古来シテ方の過半数を占める観世流で人間国宝が片山幽雪ただ一人とは他流に比して不公平だ」、などということにもなるのである。

私は、万作の藝も指導者としての力量も「人間国宝」に全く遜色なく、適任と思っている。
だからといって、亡き先代野村又三郎が不適格だったとは思わない。
東次郎の認定は当然過ぎるほど当然と思うと同時に、亡き茂山千之丞・茂山忠三郎・山本則直たちだって一騎当千の「実質・人間国宝」だったと確信する。

藝界というものは、万事、「めぐり合わせ」だ。

一人の適任者の功を讃えると共に、これに漏れざるを得なかった名手の存在を、われわれは決して忘れてはならないはずである。

2012年7月21日 | 記事URL

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