2012/7/8 やっぱり名舞台!!!~ミュージカル〈ミス・サイゴン〉 | 好雪録

2012/7/8 やっぱり名舞台!!!~ミュージカル〈ミス・サイゴン〉

先日、プレ・ヴュー初日を見てガッカリしたミュージカル〈ミス・サイゴン〉
本日、めぐろパーシモン・ホールでの千穐楽を再見。

いやー、面目一新、君子豹変と言うべき名舞台でした。

先日は条件の悪い席、今日もさほど良席で見たわけではないが、舞台の成果は段違い。およそミュージカルに、音楽と劇の相関に、ちょっとでも興味ある向きは必見の出来ばえと推奨したい。
まだ、全国ツァーは始まったばかり。来年1月までの巡業ロングランである。

何より、怪しさ満点、善悪不明のエンジニアを演ずる市村正親がすばらしい。
先日まだエンジンが掛からぬかして「影のようだ」と思わずにはいられなかったが、先日が乾いた高野豆腐だったとすれば、本日はすっかり水気を取り戻して出汁をタップリ含んだ高野豆腐である。第2幕の「アメリカン・ドリーム"The American Dream"」が素敵に虚しい最高の出来(たぶん市村エンジニアは一生アメリカには渡れないだろう......)だったのは、派手を尽くした演唱ぶりとは別に、市村の演技が言外に漂わせる「無常感」の感動でもある。

各役、すべて満足。

ヒロインたるキムの知念里奈はプレビュー初日の凝りも取れ、体当たりで声が割れるのも役柄の切実さと相俟って気にはならず、何よりも歌に心があり、声が良く伸び、快くなびく。
私にとってこのミュージカルには涙のツボが随所にあり、知人同伴は気がさすほどなのだが、その最たるサワリが第1幕、キムとクリスの熱愛の二重唱「世界が終わる夜のように "The Last Night of the World"」。
ここで知念は、既に終幕の自決につながる「腹」を見せている。
最終幕のキムの自死は、決して衝動でも、当てつけでもない(そんなふうに思う人がいたら、それはただ「情なし苦なし」の愚か者である。)
「夢」を叶えるため、わが子に生を託す女=母の生命観の発露、すなわちキリスト教徒には思いも寄らない東洋的輪廻転生に依る「一念」の持続なのだ。濃厚凄艶な知念の歌いぶり(当然、第1幕最後の名歌「命をあげよう」は圧巻)は、不満の念をまったく介在させない。
※ここに上げた動画は稀代のキム・本田美奈子の死没前年、2004年の記録である。既に病魔の翳さす歌いぶりだが、不惜身命というべき渾身の歌いぶりは激しく、聴く者の胸を搏たずにはおかない。

甘いテノール・原田優一のクリスは、「学徒出陣」で戦地に赴き多大なショックを受けた青年として最適。歌は全く文句ナシ。そのうえ第2幕「ホテル・シーン」での自暴自棄の真率さがすばらしい。
岡幸二郎のジョンは、第1幕でのハメの外し方が過激。同時に、第2幕の至高の名歌「ブイ・ドイ"Bui-Doi"」の説得力が尋常ではない。高音を張るところにこの歌の意義があるだけに、昔に比べればちょっとはキツイ部分があるにもせよ、熱く深い歌心からジリジリと押してくる説得力の偉大さに関しては、岡以上のジョンは当代にあるまい。
ことに、第1幕サイゴン歓楽街でのジョンの軽薄ぶりを隠さないこの演出には、ジョンもまた「"ブイ・ドイ"の隠れた父ではないのか?」という実感がある。それを隠蔽せず、堂々と「罪」を懺悔することも辞さない勁さ、潔さが岡のジョンにはあり、それが第2幕で安直かつ自己中心的な解決法を模索するクリス夫妻に対するジョンの忌避感の真実味に繋がっている。

泉見洋平のトゥイは、彼の特性たるエキセントリックな起爆性に加え、彼のみの持つ陰翳と「弱さ」の感覚が、キムに射殺される件の圧倒的な悲劇味をいやが上にも掻き立てた。
この、キムがトゥイにタムを示す場で、プッチーニ〈蝶々夫人〉の引用が顔を出す。ほかにはこの原作オペラからの音楽的引用はまったくない中、〈蝶々夫人〉で領事シャープレスにわが子を示す「豊年ぢゃ満作ぢゃ」のメロディーが、このミュージカルでそこに相当するタムの紹介場面に横滑りして用いられているのだ。
※このメロディーは、実は、トゥイがキムに射殺されるクライマックス「時が来たこの国、湧き上がるこの力」「この人を讃えよ、この国の父なのだ」のメロディーに援用されている。むろんこの「父」とはホー・チ・ミンであり、この歌は革命歌なのだが、これはいわば武力統一の父性原理。〈蝶々夫人〉第2幕で、バタフライがピンカートンとの間に生まれたわが子を狂おしく抱き出て"E questo?(それに、この子です!)"と繰り返し叫ぶ部分にかぶせオーケストラ全奏で流れる「豊年ぢゃ満作ぢゃ」は母性原理。それぞれ「親と子」のテーゼが鏡面構造となっているのは興味深い。

ホー・チ・ミン奉戴者たるトゥイの死の場で、彼の価値観に立って意図的に「父」を讃える革命歌として歌われるこのメロディーは、それに先立つタムの提示の場では〈蝶々夫人〉と同じように全曲中に冠絶する「母の無償の愛」の音楽的動機に読み替えられる。一族を殺したベトコンに寝返り、革命家として父性原理に生きようとしたトゥイは、一族の末流たるキム母子の手に掛かり母性原理の前に敗退してこの世を去るわけだ。そうした因果応報がこの役にはあり、根の深い泉見の歌にはその桎梏が感ぜられる。

エレンの木村花代もすばらしい。安定した美声という意味ならば一座中第一ではないか。
日本人には「身を引く」美学がある。アメリカ人のエレンにはそれがない。
女性であったら思うだろう。「自分ならどうするか?」
輪郭がハッキリし強さを具えた木村の歌には、その問い掛けが籠っている。

本日は勤務校の学生たちを引率したのだけれど、感動絶大だったようだ。
名物だったが故障も多かったヘリコプターの大装置は出なくなった、今回新演出の〈ミス・サイゴン〉。
是非ご覧頂きたいと思う。

2012年7月 8日 | 記事URL

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