2012/9/13 井上芳雄×坂本真綾 〈ダディ・ロング・レッグズ〉 | 好雪録

2012/9/13 井上芳雄×坂本真綾 〈ダディ・ロング・レッグズ〉

「ミュージカル・ロマンス」と銘打つ通りこれは原作"Daddy-Long-Legs"(『足ながおじさん』)をほぼ忠実にミュージカル化したもの。
物語はみなさんご存じ、である。

ここには、作者ジーン・ウェブスターが1912年発表当時抱いていたアメリカ社会の未来へのヴィジョン(それは社会主義やフェビアン協会へのシンパシーとなって劇中で明言される)、まだ女性参政権が認められていなかったアメリカ社会における女性の自立への烈々たる意志が示されている。
もっとも、主人公ジルーシャ・アボットは孤児なるがゆえ、またこの作品がラヴ・ロマンスであり成長物語の枠内にあるがゆえ、最後は富豪の男性ジャーヴィス・ペンデルトンと結ばれて居場所を獲得する「ハッピー・エンド」に終わるわけで、このあたりを「フェミニズム的な限界」として読む向きもあるだろう。

だが、キリスト教徒の習いとして男女の恋愛は神聖である。
それは、ピュータニズムに潜む偽善性に違和感を吐露するジルーシャにとっても、決して揺らぐことはない。
この価値観の安定が、たとえ小市民的ではあっても、いやそれだからこそ、メチャクチャな世相の中でさまよう現代人の目にこのミュージカル作品が理想的な安息の物語と映る理由かもしれない。

20分の休憩を挟んで、第1幕が65分。第2幕が75分。
一杯道具の長丁場をたった2人で演じ通す、その2人ともがすばらしい。

坂本真綾のジルーシャは、逆境の中で育ちながらも白木のようなすがすがしい心性を失わない前向きの少女が、場面を追うごとに、手紙を書き積むごとに、次第に女性として確実に成長してゆくさまを、ごく自然に演じきっている。坂本が演ずると大学を首席総代として卒業するほどの知性も身に付いた真実と見え、富豪階級への違和感を抱きつつ根っからそれを拒絶もしない柔軟な心を具えた人物像にも嘘がない。
もとからの美質が次第に磨かれ、やがて一人の自立した女性となって輝きを発するまで、坂本の持ち合わせた内面の清らかさを感じさせる美貌と、思慮深くも大胆な性格によって、ほぼ理想的に人格化されたと言って良いだろう。
そうしたもとより具わるニンのみならず、ひたむきな演技衝動が全体を貫くことによって、坂本の扮するジルーシャは単なる「夢見る夢子ちゃん」ではなく、確かにこの時代を証言する人物として血肉を得た。
坂本真綾の挙げた、まことに大きな成果である。

「あしながおじさん」の正体ジャーヴィス・ペンデルトンは、身長180㎝を誇り実際に手と足の長い井上芳雄でなくては勤まらなかった役だ。
それだけでなく井上はこの役に必要な陰翳、懐疑、純情、当惑、羞恥、品性、知性といったジャーヴィスの人格すべてを「わがもの」としてその身に具えている。
これはもう、これほどの適役を井上に振った制作の勝利であって、井上は完膚なきまでに作中の人物になりきった。
〈エリザベート〉と〈ルドルフ〉の両ルドルフは井上の当たり役だけれど、前者はいわば添景人物であるに過ぎない。後者は背後に荒淫の暗黒がなくてはならず、清潔感の強い、言い換えればちょっと堅物(余談だが井上芳雄の「堅物マリウス」が見たいのは私だけではあるまい)の井上とは実は少なからずズレがある。
いずれにせよ、このジャーヴィスほど井上自身と役柄との懸隔が消失する例は珍しいのではなかろうか。
ジャーヴィスが夏の農場でジルーシャと過ごし、身の上を隠している後ろめたさをつかの間忘れて暮らす楽しさ。ことに、2人で山に登り、焚火で料理をし、下山の途中に雨に降られて松の木蔭で雨宿りをする件。自然児のようにキラキラ光る坂本の美質に照らされた井上もまた、建前や仮面をかなぐり捨てたすがすがしい心を夜空にさらして、内面の四肢を解き放つような感があった。
井上がこの場で見せた、屈託のない真実。これが最後に回想の一部となってジルーシャの胸中に甦り、2人は堅く結ばれるのである。

芳雄くん、実に良い役を手中にしたものです。

ただ、賛辞ばかりではなく、いちおう批評がましいことを言い添えるならば、肝腎の歌唱は、どうであろうか。

坂本真綾はもともと「歌の人」ではない。2003年から2009年まで演じていた〈レ・ミゼラブル〉エポニーヌ以来のミュージカル出演ということだが、今回は登場人物2人のみ、双方とも主役だから、その負担は相当だろう。
現在では高性能のマイクがあって、よほどでない限り「そこそこ」の歌声は響かせられる。
だが、やはり声のあるなし、歌の訓練を積んだか否かは明白で、坂本はその点、決定的に声が薄いのは隠しようがない。いわば、少ない持ち分をマイクで増幅して、やっと持たせているわけである。

これに対して藝大卒の井上はマイクに任せ過ぎ、彼が本来持っているはずの声の何割かしか出ていないのが歴然としている。
これは已むをえないことで、マイクの性能が上がった分、本格の発声で当たると声が汚く割れてしまうのである。
たとえば弱音、いわゆる「ソット・ヴォーチェ」は難しいもので、声楽的には横隔膜を使い、腹筋(というよりインナーマッスル)の力で下支えしてこれを出すものだから、よほどシッカリした修養を積まないと声がフラついて聴いていられない。
だが、マイクを通す舞台でそんなことは必要ない。
というよりも、マイクに弱音を過不足なく拾わせるには腹筋を使うより口先と喉元を巧みに操作したほうが早道なので、井上も必要な部分ではほぼすべてそうして発声している。
これだと、彼が作り上げているはずの「本来の声」は発現しない。
私はその意味で、非常にむず痒かった。
われわれはマイクを通じ井上芳雄の「ささやき」を聴いているのであって、かれの腹から、心から発する芯の徹った声を充分聴き取れてはいないのである。

つまり、坂本は足りないものを増幅、井上は持っているものを半減、それぞれ具合よく格差を平均化して進めるのがマイクの機能、ということになる。

歌声の力を信じたい私にとって、ミュージカルという舞台藝術に一抹の不信感が拭いきれないのが、以上の問題なのだ。

もっとも、マイクを通じ芯のある声を響かせる手はあるのであって、これらはむしろ音大を出ていない、ミュージカル専門のヴォイス・トレーニングを受けた役者たちの歌に聴くことができよう。
先日の〈ミス・サイゴン〉でいえば、岡幸二郎、泉見洋平、原田優一、みな音楽大学の出身ではない。
が、彼らの発声は音大卒の山崎育三郎や上原理生よりよほどマイクを活かし、それでいて芯のある響きの豊かな個性的な「声」が獲得できているのである。

今回のシアタークリエのような小さな劇場、この作品のような室内楽的な演目では、「歌い上げる」ことが無理だから、自然とささやく、語りかけるようになるわけで、これは演出の指示であるかもしれない。
それでもやはり、坂本にせよ井上にせよ、歌声の地力で聴かせることができれば、さらに申し分のないところではあった。
特に坂本は、腰を据えて特訓を重ねれば、彼女らしい歌声に地力が加わる可能性があるのではなかろうか?

これほど好配役の好舞台。東京公演が既に完売の人気なのは当然だろう。
こうした作品は今後末永く演じ続け、たくさんの人たちに楽しんでもらいたいと思う。
そして、坂本も井上もこれ以上はない適役なだけに、これを惜しむあまり肝腎の歌の問題は私にとって看過できない残念なことがらではあるわけで、その点は今後のさらなる進化と深化を待ちたいと思う。

原作に沿った脚本と、聴き飽きない音楽。どちらも強烈な個性には欠けるがまとまりは至極良く、一日を終えた夫婦や家族でくつろいで楽しむには最適。歌詞やセリフには翻訳調の生硬さがあって、もっとこなれた、美しい修辞だったら作品の価値はより増すだろう。これは翻訳ミュージカル一般に言えることでもある。

一杯道具は書架に囲まれたジャーヴィスの書斎。オークの壁材や板張りの床の質感も良く出ていて美しい。ここにトランク類を配置、ベッドや山に見立てる操作も気が効いている。
衣装は「良き時代のアメリカ」のファッションどおり。
ジルーシャがちょこちょこ着替えるのだから富豪のジャーヴィスは(ネクタイを何度か替えるだけでなく)1幕と2幕でスーツぐらい違えてほしかった(両幕とも緑がかったグレーのスリーピースで通した)。
それから、ジャーヴィスの上着のポケットが空。ここにチーフを入れるのをお忘れなく。

脚本・演出:ジョン・ケアード/音楽・編曲・作詞:ポール・ゴードン/編曲:ブラッド・ハーク/翻訳・訳詞:今井麻緒子/装置・衣裳:ディヴィッド・ファーリー
音楽監督・歌唱指導 山口琇也/照明:中川隆一/音響:本間俊哉/ヘアメイク:宮内宏明/ピアノコンダクター:林アキラ/舞台監督:宇佐美雅人/演出助手:末永千寿子/プロデューサー:小嶋麻倫子

2012年9月13日 | 記事URL

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