2013/8/12 市川海老蔵第1回自主公演『ABKAI~えびかい~』 | 好雪録

2013/8/12 市川海老蔵第1回自主公演『ABKAI~えびかい~』

溽暑激甚。青天ならず熱気で霞んでいるような空あいが不快。
午後は渋谷のBunkamura シアターコクーンで『えびかい』
そのあと歌舞伎座第3部を掛け持ち。

後者は後日まとめて批評を上げるが、〈狐狸狐狸ばなし〉はさすが北條戯曲とて良く書けている娯楽劇だと改めて思う。現今の歌舞伎役者にとっては、このあたりがもう古典歌舞伎よりも自然に演じられる作品かもしれない。
〈棒しばり〉は舞踊としては決して第一級の作ではないけれど、三津五郎と勘九郎で面白味は少ないながらキチンと踊られているし、この第3部は歌舞伎初心者にとって納涼恰好のオススメである。

さて、『えびかい』、である。
はじめに断っておくが、私は好悪や是非の観念は強いほうだと思う半面、予断や先入観を最後まで引き摺って固定観念のみを口にしたがる決して性分ではない。
厭だ、キライだ、と思っている事物でも人でも、そのメッセージは曇りなく受け止めたいし、接しているうちに納得して評価や感想などガラリ改めることに何のわだかまりもない。
今日は正直、宮沢章夫脚本、宮本亜門演出の新作歌舞伎〈疾風如白狗怒涛之花咲翁物語~はなさかじいさん〉が始まって3分も経たないうちに、「あー、物見高く足を運んで、失敗した......」と後悔した。
で、ふと思ったのは、「これが大人向けでなく、こども向けに良くできた『おしばい』として作られていたら、どうだろう」......そう考えると、このままでそうなるわけではないが、工夫によっては別の新たな可能性が確かに開ける気がする。

なるほど、モノは考えようだと、独りつくづく考えたことだった。

というのも、みなさんは、いつごろ初めて「劇場」に足を運ばれただろうか?

私の場合は幼稚園時代。
たぶん、「ケロヨン」の出てくる木馬座の人形劇だったのではないかしら。
いやいや、それだけではない。小学校低学年にかけて劇団四季の〈はだかの王様〉とか〈王様の耳はロバの耳〉も見たおぼえがある。
そのほか、今となっては題名もあらすじも忘れてしまったけれど、サントラ盤のソノシートを買ってもらって、青とか赤とか綺麗に透けるそれを飽きず何べんも掛けて聞いて、セリフや音楽が今でも再現できる舞台作品の記憶もある。
それらはみな、こども向けに作られた舞台であって、幼稚園や小学校に営業に来た劇団の切符だったはずだ。きっかけはどうあれ、芝居好きになる子供というのは、ごく小さい時の印象があとあとまで残るものなのだ。

もし海老蔵が、みずからの自主公演をそうした将来の「芝居好き」になり得る子供たちのため門戸を開く企画として立ち上げたならば、どれだけすばらしいことだろう。
「むかしばなし」という切り口は、その時あんがい子供たちにとって恰好の「おしばい」の入り口になるかもしれない。

でも、今回の公演は必ずしもその趣旨に限ったようではなかったようだ。
プログラムに海老蔵が劇団四季の〈美女と野獣〉や〈ライオンキング〉を挙げて、「こどもでも楽しめるものを」と言っているのは大賛成だが、今回の脚本には悪人の徳松爺がセツ婆に言い寄る好色場面がポイントの一つとしてあり、醜悪なここは「こども向け」ということならば当然カットしなくてはならないだろう。

いや、脚本について言うならば、そうした場面づくりやクスグリよりも今回の一番の問題は「主題性の脆弱さ」、もっと正確には「主題のなさ」ではないだろうか。
「こども向け」と言って、バカにしてはいけない。「こども向け」なればこそ、明確な主題が戯曲全体を貫いていなければ、小児の心はつかめないものだ。

もちろんこの「主題」とは、「愛」だの「友情」だののように声高に叫ばれれば能事足れりと誤解されがちな「スローガン」ではない。
戯曲の中に沈潜し、声なき声をおのずから挙げる、それを見、感じた者がコトバにせずにはいられない劇的な「あるもの」だ。

劇団四季の貴重な財産である寺山修司の2作品〈はだかの王様〉と〈王様の耳はロバの耳〉を考えるとわかる。
ここにはどれだけわかりやすいかたちで劇的主題が貫かれ、コトバが吟味され、こどもたちの心に感じ、考える勇気を与えてくれるか。
いま上演中のミュージカル〈ウィキッド〉だって、アメリカではティーンエイジャーの女の子たちが見る作品だ。そこにどれだけ鋭い劇性=ここでは批評精神、が横溢しているかは、先日この項でも述べたとおりだ。その批評性は、寺山の2作品の中にも別の意味で静かに横たわっている。
真に「こども向け」だからこそ、大人にも通用する作品でなくてはならない。
こどもたちには、こどもなればこそそうした上質の劇に接してほしいと、私は切に思う。

宮沢章夫の脚本については微細にわたり詳しく論評しなくてはならないところだけれども、ひとつだけ最も違和感を抱いた点。

冒頭、桜の花ざかりに浮かれている村人たちを突然の水害が襲い、村は壊滅。色彩の美というものが失せて、人々は物欲に生きる存在と化す。ここで悪人の徳松爺だけでなく善人の正造爺すら動物たちと一時対立するのがちょっと〈ウィキッド〉オズ帝国の人獣雑居の平和の崩壊を思わせるが、その水害の原因は人々が農業の利潤を上げるため河川改修を強行したためではなかったか。
なのに、その問題は劇中うち捨てられ、「はじめからなかったこと」のように解決されない。
忠犬・シロの犠牲死によって屍灰が桜の花を咲かせ、人々が再び浮かれる結末。「ただ踊れ、ただ歌え」と狂躁のうちに幕となる。
これは「家族で仲良くまた花見ができてハッピーエンド」なのだろうか?
悪人・徳松爺が毒虫の祟りで死ぬのは因果応報、人間の両親に命を捧げたはシロはあの世で浮かばれるかもしれないが、自然を破壊し物欲に生きるようになった人間たちの根本問題は、何の解決もなされていないではないか。
この「砂を噛むような結末」が、〈ウィキッド〉的に場面の美しさと高揚の中に塗り籠められた「毒」=したたかな批評精神として強烈に潜在しているならぱ、私は唸るところだ。
が、宮沢脚本はどうやらそうではない。舞台上の役者や満場の観客たちと一緒になって、ただ理由も論理もなく、本当に浮かれたかったらしい。
少なくとも、私にはそのように読み取れた。

私はちょっと、恐くなった。
こうしてこの劇場にいる大多数の人々が、何のフシギもなく憲法第96条の改悪を見過ごし、改憲を見過ごし、徴兵制の制定を見過ごすのではなかろうか......

海老蔵はプログラムで〈蛇柳〉について、こう述べている。
「西洋人は、せりふなどによる多くの情報を求め、考えることに重きを置く傾向があると思いますが、日本人は、より視覚的な豊かさを求める気がします」。

それは一面でそうだけれど、半面、それだけではなかろう。
たとえば、一般に「見て愉しむにはコトバを必要としない」と誤解されている舞踊。
舞踊とは、実はそんなものではない。逆に、見る者が人一倍「内なるコトバ」を持っていなければ愉しめないのが舞踊という身体表現の真実だ。
舞踊を見る愉しみとは、コトバに拠らない舞踊手の身体表現を、享受者が固有のコトバに置き換えようと務める、非言語と言語の間のダイナミズムの愉しみである。
もともとコトバによって書かれ、コトバによる演技を根柢に据える演劇であれば、なおさらだ。

現今の歌舞伎は、「考えること」を必要以上に貶めていないだろうか。
歌舞伎独自の音楽や演出や型など様式面の特異性を追うあまり、肝腎の「コトバによる劇世界の構築」をおろそかにしてはいないだろうか。
そして、歌舞伎であれ何であれ、いかなる戯曲であっても優れた作品とは、その時代の輿論の大勢に乗って浮かされるものではなく、卓抜した同時代への批評性を秘めているものではないだろうか。

某友がこの作品について、「明るいアベノミクスの時代の季節外れの花咲き物の感あり......世の中何もよくならないのに何だか気分でいゝ時代になつた、といふやうな」と寸評した。
問題はこれに尽きている。

以上は私の予断、先入観に拠る曲解だろうか。
そうでないつもりだが、さて、どうだろう?

第1回と題したからは、次回以降も期待できるはずだ。
会主・海老蔵がもし「こども」を観客に取り込む優れた新作歌舞伎を今後また欲するならぱ、たとえば、〈はだかの王様〉や〈王様の耳はロバの耳〉のすばらしさを、寺山戯曲の今日的意義を、〈ウィキッド〉や〈ライオンキング〉のしなやかな批評性を、ぜひ一考再考してほしいと、心から私は思う。

はじめの〈蛇柳〉は30分ほどで藤間勘十郎の新案。地は長唄ながら常磐津風の節もあり、全体に能ガカリ。
後シテ・蛇柳の精魂と押戻し・金剛丸と、2役を海老蔵が変わるのはちょっと無理。また、後シテは白地の鱗箔に緋長袴で女装だが、前シテの丹波助太郎は男。男女合体またはフタナリの心ならばそうハッキリと示さねばなるまい。
ほか、色々てんこ盛りの割に「文法」を外れた処理が多く、演出不足と見た。

2013年8月12日 | 記事URL

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