2013/9/16 国立能楽堂創立30周年記念能2日目+「基の会」 | 好雪録

2013/9/16 国立能楽堂創立30周年記念能2日目+「基の会」

台風が通り過ぎ、夕刻以来すっかり爽やかな大気と入れ替わった。
明日は抜けるような秋晴れを期待しよう。

その風吹き盛りに国立能楽堂へ。
公演は中止とならず15分遅れで開演したが、完売のところ空席が見られたのは惜しいことだった。
梅若玄祥2日続けての出勤。昨日の〈楊貴妃 干ノ掛・臺留〉は舞事が好工夫だった半面、色々な意味で問題の多い出来。今日の〈住吉詣 悦之舞〉は小書どおりのオーソドックスな演出ということもあり、盟友・大槻文蔵との呼吸も合致、玄祥らしい光源氏を見せてくれた。

能が済んでから国立劇場に回り、2年に1度開催される花柳基リサイタル「第12回・基の会」を見る。なかなかの好演である。

番組は2本立て。
はじめが男性群舞と花柳ツルの靜御前を従えた素踊りで新作〈阿修羅〉。ジンギスカン伝説につながる義経落魄の物語である。

花柳壽輔の振付とばかり思って見ていたのだが、終わってからパンフレットを読むと若手・花柳達真の手によるものだという。セリを効果的に用い、群舞の捌きも停滞せず、無駄なく巧い振付である。
ただ半面、日本舞踊の舞踊言語の単一性というか、大抵の振りが「当て振り」に近いものとなって表層的な言語表現に留まっている。従って舞踊手の顔つきと手先ばかりが目立つ。
これは花柳達真の資質の問題というより、邦舞全体の問題だろう。
斎藤雅文の台本も大衆演劇的で詞章に雅致と含蓄が足りないようだ。

素踊りとはいっても、邦舞の場合決定的なのは、上記の理由から徹底した抽象が成り立ちにくい点だと思う。化粧や衣裳を排した分、むしろ説明度が高くなるようなのは、どうか。
それは作曲の問題でもあって、杵屋巳太郎は現在の邦楽人の中で最も「抽斗」の深いタイプだと思うけれども、邦楽の「効果」というものが邦楽の中で閉じていて、新作がいっこうに新しく聴こえないように思えるのはどうしたことだろう。

その世界、そのジャンルの中に身を置く価値観でモノを言う限り今宵の〈阿修羅〉は上出来で、踊りの揃い具合も基の技巧も万全のものだったとは思うけれども、そうした枠を取り払ったとき、新作邦舞が抱え込む根本的な「陳腐さ」を、私は今回もまた否定できない気がしたものだ。

休憩後は衣裳つきで〈奴道成寺〉を存分に踊る。
優れた舞踊家でも、歌舞伎役者と比べれば、衣裳を着ての動きに遜色があることが多いが、比較的軽装のこの演目だからそうした愁いはない。
ことにクドキで三ツ面を使い分けるのが巧く、彼の特長である洒脱な楽しさがこの部分で最も観客を沸かせた。
「ミラーニューロン」というのだろうか、彼の踊りが興に乗ってくると、見ているこちらまで身体を動かされるような気になってくる。
〈阿修羅〉もしかり、技巧面できわめて高度な達成を果たしている基の踊りが、それだけでない「舞踊の愉悦」とともにあることが実感される、愉しい成果だった。

もっとも、もっと身体を使いきって動けたら動いたほうがよい、と思うところもある。
最後の鈴太鼓の件「姿やさしや」以下、手に持った鈴太鼓を反対の手先から肘、肩に流しつつ半身ずつひねって動く振りがあるが、ここで最も大きな動線を使って見せた雀右衛門がどれだけ動いても体幹が決して崩れなかったことを思い出す。

踊りを見ることとは、「踊り手のオーラが云々」などとつまらない自己の感覚に沈澱することではなく、目前の身体を、技巧のありようを、しかと見届けることに尽きると、こうした名舞台を見て私は教えられたものだ。

2013年9月16日 | 記事URL

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