2014/1/19 能の間狂言再説 | 好雪録

2014/1/19 能の間狂言再説

本日は国立劇場で毎年恒例の「三曲の会」を聴く。
山勢松韻がタテを勤めた山田流〈六玉川〉がひときわ優れた出来ばえ。高音が難しい歌の格調といい、爪音の確かさ強さといい、ちょっと別格、である。
〈酒〉でなく〈笹の露〉と曲名を付すトメで箏の米川文子は化学繊維ならず絹の絃を用いたかと思う。演奏はさすが古風な柔らかさで、派手に弾き立てるわけではないのだが、音楽としてはすべての爪音の粒が機能している堂に入ったもの。米川敏子の巧みな三弦に比ベて何倍も藝柄が大きいのは、昔と今の藝人の修業の違いを端的に示すかのようだった。

さて、去る17日は国立能楽堂企画公演〈井筒〉梅若玄祥が大変な名演だった。

肥満のせいだろう、前場クセは下居ならず床几に掛かったのだが、その姿が放恣に流れず、身をキッと詰めていて間然とするところがない。便法を転じて見せ場に変えた手腕。
後場序ノ舞アトは替ノ型。浅見真州が自分の会で見せた昨秋もそうだったが、型の処理は玄祥がはるかにうわ手だ。
この型では「老いにけるぞや」と「業平の面影」と2度、井筒を見込むのが至難である。
玄祥は初めは軽く見込み、とはいっても「老いにけるぞや」をゾッとするような声音で謡い心持ちを強く効かせ、2度目には左袖を内から外にハラリと返した勢いで井筒左手の薄を押し分け、左足を一足踏ん込んでやや半身になって井の内を深く覗き見た。
その身体の線の強さといったら、ない。
とはいえ、ここで思わせぶりな間を取ることなく、情念を断ち切るように「見れば懐かしや」とすぐ次に進めるドライな感覚。
思いきり突っ込んだことをしていながら、みずから作り上げた情動の世界に淫することなく「離見」に徹する知性が全体に張り巡らされ、ちょっと「恐ろしい」〈井筒〉が現前した。

これには、ワキの宝生閑、アイの山本東次郎、この2人が確固として舞台を支えた効果も大きい。ことに物語を裏側から焙り出す東次郎のアイの格調と、リアルな「語リ」の感覚。
大蔵流には『伊勢物語』を再解釈した『大和物語』第149段の「別伝」筒井筒物語を語る型もあって、そこでは「妻の内心に秘めた嫉妬の炎が金属椀の冷水を沸騰させた」業の深いエピソードに触れる。玄祥が演じたこの日の〈井筒〉は内在的にその解釈に近似していただけに、間狂言がもしそちらのパターンだったら(この日は違った)ひときわ大きな効果が加わったかもしれない。

それにしても能〈井筒〉の解釈は、戦後になってようやく明らかになった中世の『伊勢物語』古注釈との兼ね合いによってなされるものである。第23段「筒井筒」の純愛が第24段「梓弓」の凄惨な悲劇に終わる、というのがそれで、世阿弥は前者を表に立てつつ後者を暗示するかたちで巧みに劇化した。シテによっては前者のイメージばかりで貫くこともできるし、作意を汲んで(今回の玄祥のように)後者の解釈を内包させることもできる。現在の間狂言で「24段が23段の後日譚である」と語る間狂言はないのだが、私はどこか試演の場でもいいから、これを作成して上演したらどうかと考える。むろん、文体すべて現行の間狂言に準じた古典的スタイルが望ましい。

現代ではまさか、間狂言=シテの着換えと観客の昼寝の時間、と考える人は少ないと思うけれど、先日も〈當麻〉に関して記したとおり、その演劇的機能についてはまだ開拓すべき余地や検討すべき問題が残されていよう。
内容のある間ガタリの修錬は狂言方の技藝向上にきわめて効果的でもあり、機会にさえ恵まれれば前向きに取り組みたいものである。

2014年1月19日 | 記事URL

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