2014/5/16 【対談】〈比丘貞〉と狂言「三老曲」を語る | 好雪録

2014/5/16 【対談】〈比丘貞〉と狂言「三老曲」を語る

私と山本東次郎氏による以下の対談は去る平成26年5月11日に国立能楽堂で催された「山本会別会」における配付パンフレットに掲載されたものです。東次郎氏の快諾を得、ここに転載します。

【対談】〈比丘貞〉と狂言「三老曲」を語る~山本東次郎×村上湛~

★〈比丘貞〉再演に当たって

村上
26年前に東次郎さんの〈比丘貞〉を拝見しまして、その時の日記があるのです。昭和63年4月3日、杉並の舞台のいちばん前の席でした。東次郎さんは51才、ちょうど今の私くらいの年配だったわけですね。「人間50年」の昔なら、初演としては十分な年齢です。ところが今は平均寿命が80才ですから、そうとう若くしてなさったということになります。
私はその3年前に3世茂山千作さんの〈比丘貞〉を京都で拝見しておりまして(昭和60年3月9日・茂山狂言会)、年を取った方の〈比丘貞〉と比較的お若い方の〈比丘貞〉と、同じ流儀でも別のもののように、非常に興味深く思いました。
その初演の〈比丘貞〉についての動機だとか、お話し頂けますか。
東次郎
「東次郎の狂言を観る会」という催しがありまして、その主催者の方々からのリクエストでした。
村上
あえて〈比丘貞〉を、ですか。
東次郎
ええ、それであまり乗り気ではなかったのですが、しかたなくと言いましょうか。ちょうど則秀が子方の役に合う年齢でしたし、弟2人が地謡を十分に謡ってくれると思いましたが、自分では向いていないかなという後ろめたい気持ちではありました。
この曲は、シテのお寮が舞を舞うところでお尻を振る型があるんですが、うんと抑制いたしましてわずかしかやりませんでした。それからやはり舞の中で、扇をぴゅっと回すところがありますが、それも半分しかやらなかったりして、でも実はそこにポイントがあるんですよね。
村上
〈比丘貞〉という曲の、ですね。
東次郎
はい。"お里が知れる"ポイントなんですよね。それは狂言としては非常に異例の際どい型で、200番の内、この曲にしかありません。ですからそこが「習い」になっているわけですけれど、これみよがしにやると能舞台の品格からはみ出してしまうおそれがあって、そのため当時は、内輪内輪に、というか、ほとんどわからないように、見える人だけに見えればいいというようなやり方をしたと思うんです。だけど今なら則を超えないでできるような気がするので、「習い」の範囲でかなり奔放にやってしまおうかと思っています。
村上
その日の日記を見ると、リクエスト小舞という趣向で〈蛸〉と〈法師が母〉を舞われていて、どちらも大曲です。これがとっても良かった。それに比べて〈比丘貞〉は、単純に申してもお堅い芸でした。それは今おっしゃったようにまだ年齢に合わないということ、それからキャラクターですね、東次郎さんの持っておられるキャラクターとぴったりくる訳ではない。おそらくご先代から高校生の時分にお習いになった型をとにかく一遍繰っておこうということでなさったのだな、と思いました。
その日のプログラムに東次郎さんは「隠しておきたい過去がにじみでてしまうところがこの〈比丘貞〉のテーマだ」ということをお書きになっています。私、その時はちょっと違和感がありました。というのは、3世千作さんの〈比丘貞〉、最晩年の卆寿記念でしたから、はっきり言ってもうちょっとまだらになってらして、語りなんか繰り返しちゃったりするようなところがあったんですけれど、曾孫の逸平くんだったか宗彦くんだったかをまえにして、「これからは庵太郎の比丘貞じゃほどに、随分おとなしゅうさしめ」とありますでしょう。ああいうところに無常の観念というんですか、もう人生が終わっていく人間とこれから始まっていく人間が一時出会って、そこに命と命が触れ合うような、どこか悲しいような味わいが出ていて、それは3世千作さんの小味なキャラクター、決して4世千作さんには出せないキャラクターで、私もまだ若い年で見たものですから、印象に深く残っているんです。
東次郎
3世千作さんは、皆さんよくご存じの千作さん、千之丞さんのお父様ですね。そういうところがありますね。ちょっと淡白でいて、すっとして。今おっしゃったような、自分は消えていく、後を託すというような。
村上
とっても悲しい、心温まりながらもほろっと涙がこぼれるような感じ、それが心にあったものですから、これじゃないかな、と。それは実は〈比丘貞〉という狂言の本質というよりも、老女物、老体物の本質なんですね。ですから翻って、やはり〈比丘貞〉には〈比丘貞〉の劇があるし、〈庵梅〉には別のドラマがある、〈枕物狂〉はまた別、と。それを考えていくと、〈比丘貞〉でシテが「鎌倉の女郎は」と謡い出して。「恥かしや」と舞い留めてしまうところはやはり一つの鍵だとは私も思います。
その点、ご先代の教えはそこまで具体的にあったんでしょうか。
東次郎
父が〈比丘貞〉について書いたメモ書きのようなものが残っていますが、非常に迷っておりましてね......。そもそも父の稽古というのは、腹に力を入れろ!腰に力を入れろ!型が生きていない!、それから、重い!軽い!強い!弱い!といった曲の位置取り、型の一つ一つ、科白や謡の一つ一つが正確にできるようになるまで、徹底的に叩き込むというもので、曲の意味などというものは、そうした稽古の結果、自ずからついてくる、その年齢になれば自然とわかってくると思っているのでしょう。この稽古は何のためにするかとか曲の意味とか一切言いませんでした。明治生まれの能楽師は皆、そうです。曲の解釈などということを考えるようになったのは、昭和生まれの世代からです。
私は、どうしても自分で納得しなければできないので、勝手なんですけれども、父から教わった山ほどの断片をつなぎ合わせて、狂言すべてを貫く方程式がある、それから、曲ごとに「こうしなければこの曲は生きてこない」というところまで突き詰めました。
〈比丘貞〉は、「ヤラヤラ珍しや、珍しや。昔が今に至るまで、比丘尼の烏帽子子を取ることは、これぞはじめの祝言なる」と、この時代、女の身で烏帽子親になるなんてあり得ないと言っています。にも関わらず、お寮は、「さりながら方丈、寺も庵もおあしも米も多く持ちたれば、しじうの檀那に頼み頼まるる」、つまり財産が有り、社会的地位も確立し、また人徳も得て、男勝りに活躍しているわけです。けれどもさて、お寮の前身は何だったのか、富なり地位なりを勝ち取る以前には何をしていたのだろうか、ということになれば、泥水を飲んでいたかもしれない、人に言えない過去があったかもしれない。でも狂言は敢えてそれを言葉にはしない。興に乗って「鎌倉の女郎が」と舞うところでたった二つ、思わずお尻を振ってしまうところと、扇を雑に、というか手慣れた風に扱う、上流階級の人たちなら決してしないようなしぐさでさりげなく示して見せる、これが狂言だと思うんです。
それから私はまたまた祖先に怒られるかもしれませんけれど、今回、演出として子方に烏帽子を被らせてみようと思っています。
村上
実際に烏帽子を戴くわけですね。牛若の被るきれいな烏帽子ですね。
東次郎
子方が名前をつけてもらって、目出度く祝宴となりますが、ここで子方用の小結烏帽子を被らせたい。そうすると舞台面も華やかになるし、子どもが大人になったということをはっきり見せて、その烏帽子親としてのシテの存在を際立たせたいと思っています。
村上
それは良い型だと思います。理屈に合ってますね。
東次郎
ようやく自分の考えがそこまで辿り着いたので、今度は迷わずにできるかなと。前にご覧頂いた時は、私自身にさまざまな迷いがあったなかでやったんですけれど、今回は迷わずにやります。
村上
なるほど。26年の歳月なくしてはできなかったということですね。

★「三老曲」について

東次郎
以前、〈庵梅〉をご覧頂いた時、「まだ年寄りに見えない」と言われてしまいましたけど。
村上
そうでした、そうでした。
東次郎
昨年から今年にかけて〈那須〉のお役をご指名で頂くことが多くて、それから昨年12月には国立能楽堂の公演で〈釣狐〉を演らせて頂き、何とかできましたので、いまだに「老い」を演じる年齢ではないのかなと思ったりもします。と言いながらも、この頃ふと自分の動作が老人の動きになっていることに気づくこともあるので、これを大事にふくらませていけばいいのかなと考えたりしています。
村上
ああ、逆にね。一つの手立てとして。
東次郎
さすがに老いは感じているわけですから。
村上
そうですか。「三老曲」というのは、〈庵梅〉はそうでもないですけれども、〈枕物狂〉と〈比丘貞〉は老いを貶めるような、作者がどこか意地悪な目でシテを見ているようなところがあります。たとえば「庵太郎」とは「あんだら」、愚か者や馬鹿という意味の隠し言葉で、そんな名前をつけさせるところが、はっきり言えば無教養で滑稽な話だと思うんです。けれど、さっきおっしゃったように、この狂言のシテはとにかく富み栄えている。その経済力が、社会の中でシテが1人で生き抜き、十分な尊敬を勝ち得る基盤をなしている。そんなところが能〈摂待〉のシテと同様に私には思えるんです。12歳で継母とケンカして播磨から出て来て、都で夫と出会って、それで東北まで行って、あれはまさに自分1人で勝ち取った「女の一生」です。しかも、子を2人育てて大家の夫人に納まった。そういう「女が1人で男に伍して生きていく強さ」というものをもし〈比丘貞〉で出せたなら、それはもう感動的なドラマになると思います。どうなんでしょう、女性が主人公の狂言と言うのは。
東次郎
〈比丘貞〉と〈庵梅〉の2つしかないですね。その〈庵梅〉ですが、茂山家ではシテが舞で腰を振るんですよ。
村上
ええ、振りますね。
東次郎
あれは違うと思っているんです。〈庵梅〉のおばあさんは和歌の先生ですからもっと知的で、振る舞いも違う。同じ老女でもそれぞれに意味があるんです。
〈庵梅〉を演った時に気づいたんですが、これは〈姨捨〉とは違う。能の「三老女」の〈姨捨〉では、シテの老女はもう亡くなってしまっていて、あの世に行っても1人なんですが、〈庵梅〉は年に一度、和歌のお弟子である若い娘たちが来てくれるという希望を持っている。梅はまた来年も咲いてくれるだろう、きっと自分も命があってそれを見ることができるだろうという希望です。小さな庵でたった1人、梅の花を眺めながら春が来たなと思っているところに、「下がり端」という明るいお囃子に乗って、ぱあっと華やかな娘たちがやって来る、皆で歌を詠み、酒盛りをし、またかえって行く娘たちを見送りながら、また一年、1人で耐え忍ばなくてはいけないけれども、希望がある、ここが能との違いだと思っています。能は〈檜垣〉にしても老いた「小町物」にしても、失った美貌と若さに執着して、「あら昔恋しや」としきりに言う。それは〈比丘貞〉にも〈庵梅〉にもありません。生きている間は明日がある、それが狂言だと思うんです。
〈枕物狂〉は、セクラハラをしておじいさんが若い娘に叩かれる。けれどもそれは鏡でもなく紅皿でもなく枕であった。小さな赤ん坊だった女の子がまばゆい娘になった、それがうれしくて思わずちょっと触ってしまった。するとその女の子は優しい子で、ぶつけてもけがをしないで枕で叩いた、それで恋をしてしまったということなんでしょう。「枕」ということで意味深なことになってしまうかもしれませんが、大事なのは、すべては老人の勘違いで、思込みであると同時に、生きてく希望と私は見ているんです。
だからおじいさんのことを「口はすげみて目はくさり」と悪口を言っていますが、それでも人間っていいものだという、狂言全曲を貫く主張は変わらない。私はこの3曲ともに生きることの喜びと楽しさが根底にあって、老いていく人にも希望を残している、まだ明日があると言っていると思っているんです。
村上
〈比丘貞〉では、お金はあるけれども孤独だった女性が疑似家族を得るわけです。「お金の力」かもしれないけれど、でもそれで自分が後を託すものができるというのは老人にとっては喜びですよね。
東次郎
ええ、そうです。もちろん、親の方にも援助してもらえたらいいなという計算があるかもしれません。それを見せない、また見ないのが狂言だと思っています。
村上
なおかつ、「その向こうのもの」ということですね。
私は〈枕物狂〉は「セックスの肯定」だと思うんです。柿本の紀僧正の語りをしますでしょう。あれは物凄く陰惨な話、高貴な女性を犯してしまう、救いのない情欲の話です。それをちょっと聞かせるということは100歳の祖父にも性の欲望がある。ところがそれを劣情ではなくて、生きる欲求に転換し、明るく纏めているところが狂言の深みなのでしょう。そういったダークなところ、隠しておきたいところを反転させていく点、おっしゃるとおり狂言は肯定の芸術だと思います。それが舞台の肝要なところ、でもそれは若手ではなかなか。そんな重層性が出てくるものじゃないですね。
東次郎
いよいよその曲を演じる年齢になって、10代から稽古してきた曲と改めて向き合い、10代から稽古してきた曲と改めて向き合い、格闘していく中で初めて気づくことってあるんです。老人に明日があるなんて、若い頃には考えてもみませんでしたから。人間っていいものだ、生きることの喜びと楽しさ、そして明日があるという希望、狂言の祝言性というのはこうした中から生まれるのだろうなと思っています。けれど、演じる自分の中に喜びがなければ、どんなに頭の中で考えても役には生かされないでしょうね。

★狂言の祝言性

村上
そう伺いますと、〈比丘貞〉は3つのなかでいちばん劣っているように言われていて、しかもいちばんやりにくい曲で、役者の皆さん、なさるにしてもまず一遍しかおやりになりませんけれども、考えてみると東次郎家の芸風の特長にはいちばん合っているかもしれません。
最近、東次郎家は聟物が良くて、昨年の国立能楽堂開場30周年記念公演の〈鶏聟〉、今年3月の銕仙会定期公演での〈音曲聟〉、特に後者は東次郎家の特殊狂言みたいになっていますけれども、どちらも則俊さんが聟で東次郎さんが舅をなさって、誠に抱腹絶倒の楽しい、それも爆笑というのではなくて、たまらなくおかしい。盃事のところが特にそうでした。お客さんみな笑み栄えている。見所中がそういう顔ばかりなんです。お盃の場面というのは、ふつうは一番ダレやすい。手順はいつも同じ、どの狂言にもある定型ですから、「早く終わってくれ」みたいに思いがちなんですけれど、お2人の間で特に何をなさっているわけでもないのに、おかしいというか、楽しい。そんなところにご先代の教えが精神的に生きているということなんでしょうか。
東次郎
とにかく、「舞台は怖いところだと思え」ということは盛んに言っていましたね。けれど父に限らず、明治生まれの名人たちは皆そうだったと思います。自分は何ほどのものでもない。だから、舞台の上では自分を殺さなくてはいけないということはだれもが肝に銘じていたと思います、舞台では細部にわたって神経が行き届いていないといけないわけですから、盃事のようなところでも絶対に流してはいけない、大事にしなければならないところです。
村上
〈比丘貞〉も盃事メインの狂言です。特に芸でウケさせるわけではないけれども、見ていて何だかハッピーな気持ちになってたまらないという祝言性が大切です。これは〈比丘貞〉の新解釈というよりも、むしろ本質の掘り起こしになるんでしょうね。
東次郎
ですから〈比丘貞〉が3曲のなかで劣っているとは決して思っていません。そういうことが描ければと、とても楽しみなんです。〈音曲聟〉も〈鶏聟〉もそうですけれど、たぶんああいう笑いは世の中に他にないでしょう。
村上
はい、ないですね。
東次郎
笑わせようという意図はないし、特殊なことでもない。私としてはこういう種類のものを手がかりにして何とか、世阿弥の言う「幽玄の上類のをかし」に辿り着きたいと考えているんです。もちろん、到底至り着くことはできないでしょうけれど、狂言の理想の姿として一歩も近づけたらいいと思っております

※以上、平成26年5月11日「山本会別会」配付パンフレットより転載。

2014年5月16日 | 記事URL

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