2013/8/24 ミュージカル〈レ・ミゼラブル〉~田村良太のマリウス | 好雪録

2013/8/24 ミュージカル〈レ・ミゼラブル〉~田村良太のマリウス

この項を振り返って読み直すと、ちょうど1年前の今日、現在上演中の東宝ミュージカル〈レ・ミラゼラブル〉をめぐり失望と期待の入り混じった感想を述べている。
その折表題に据えた、当時はまったく未知の存在だった新人・田村良太の演ずるマリウスについて、今は多少思うところが溜まったので、ここでちょっと考えてみたいと思う。

私はこれまで彼のマリウスは、彼にとって帝劇のプレ初日4月23日、同じく本初日5月4日、千穐楽7月8日、博多座初日8月19日、それぞれの節目を含めて総計11回見た。
データとしては充分だろう。

今回のレミゼの配役はほとんど一新されたと言っても良い。
当初ジャン・バルジャンに予定されていた山口祐一郎は早々に降り、主要キャストで本当の意味で「古参」と言える人は(原田優一の誇るガヴローシュ以来のキャリアは除くとしても)駒田一と森公美子のテナルディエ夫妻ぐらいだろう。
今回の舞台に立つ複数回の経演者を考えても、石川禅、今拓哉、石井一孝、岡幸二郎、今井清隆、といった過去の常連たちを考える時に抱く「古参感」は浮かばない。

だからこそ、今回のカンパニーでは「主役として舞台経験の浅い、あるいは、まったくない」新人が目立つ。
ファンティーヌの里アンナやエポニーヌの昆夏美などはそれに含めてよかろうし、ほかにも「アンサンブルから抜擢されてプリンシパル」という例は多い。

その中で、映像やモデルやライヴの経験はあるとはいえ、ミュージカル的に、大劇場的に、田村良太は本当に「まったくの新人」として、今回ちょっと他に類のない役者なのだ。

結論から言うと、彼のマリウスはとても良い。
「この役柄に対する観客の意識を根柢から変えた」と評してもよい佳さである。
それは、一つには田村良太がもとより具えていたニンの良さであり、一つには演出家の志向性と彼の役作りが水も漏らさぬようピタリと合った良さだと思う。

能や歌舞伎など、本質的に演出家不在、役者がてんでに持ち寄って出来上がる舞台を見慣れていると、「新制作」を謳う他ジャンルの舞台には必要以上の期待を抱いて臨むことが多い。
それでも、それらすべてが制作意識の徹底した、演出家の「眼」が一本シッカリ徹っている
舞台ばかりではない。やはり、交通整理的な演出でしかなかったり、個々の役者の「思い」の寄せ集めで何となく熱演している舞台も多いのだ。

レミゼはどうも、そうではない。
それはひとつには、外部に開かれたオーディションにより配役されることが大きいだろう。
「『スターが作る』のではなく『スターを作る』。それがレミゼだ」というのは、あながち誇張ではない。
そして、この背後には、ミュージカル作品の藝術性と市場価値の相関、いわゆる「版権」の問題も横たわる。
著作権などとうの昔に切れた(あるいはそんなものは存在しない時代に作られた)オペラなら出版物としての楽譜の使用料ぐらいで済む問題が、ミュージカルだとまずそうはゆかない。
ある歌手に聞いたら、「ライヴで歌おうと思ったら管理が厳しくて諦めた」というのがあって、それが1957年初演〈ウェスト・サイド・ストーリー〉の楽曲だというので驚いた。
ミュージカル演目の中でもはや「古典」と目されるこの名作とて、まだ「版権」は生きているのである。

むろん個々の作品によっていろいろあり、私もこの問題については簡単に言い尽せない。
そして、悪く不都合な側面ばかりではなく、固定的な責任者の裁量を置くことによって藝術的レベルを保持し、作品に対する一般的なイメージを低下させない「タガ」のような役割も「版権」は負っている。むしろ、そうした「舞台人の仕勝手を許さない絶対的な権限」に対し、「絶対神」や「契約」の意識が根本的に薄い日本人のわれわれは無頓着、無関心すぎるという解釈もできるだろう。
現行版レミゼの総合プロデューサーは、ロンドン初演以来キャメロン・マッキントッシュ。
彼がレミゼの藝術的な全責任を負いその方向性を決しているとすれば、今回の新演出のすべては彼にあるだろうし、オーディションの決定権も最終的には彼が握っていよう。2人の演出家、ローレンス・コナーとジョージ・パウエルの見識も大きな力を持つにせよ、それらはやはりマッキントッシュの総括のもとにある、と考えてまず間違いない。
日本だけでなく、世界中のミュージカル業界は、「マッキントッシュ(=コナー=パウエル)の作品」としての新演出版〈レ・ミゼラブル〉を、それが気に入れば買い、彼らの監督下、上演するわけだ。

これが「版権」の意味だと思えば良い。

したがって、ここには個々の国ごとの「業界事情」というものはあまり反映されない。それが「スターを作る」というキャッチフレーズの裏側でもある。
大事務所の後ろ盾もなく、「人間関係」もまずないに相違ない田村良太のような新人が登用される「奇蹟」はその結果であって、だからこそ彼のマリウスが今回の新演出をある意味で象徴する印象を残したのは、むしろ当然なのだ。

今回、彼の舞台を見た複数の人から共通の感想を得た。
「いままで、マリウスには全然共感できないどころか『優柔不断でイヤな男』とばかり思っていたけれど、田村良太で見てはじめてマリウスという役に嫌悪感がなくなった」。
同感である。

たとえば第2幕、エポニーヌの最期「恵みの雨」のシーン。
今まで知ってか知らずか、エポニーヌの恋心には無知・無関心だったのに、彼女が瀕死と見るや一転、「生きておくれよ、ポニーヌ。愛で治せるならば......」とは何事と、エポニーヌに思い入れある多くの観客は、マリウスの「変節」にその場限りの軽薄を見て取りやすい。
確かに、ここは熱演すればするほど浮き上がりかねない。
今回の山崎育三郎がまさにその「熱演派」なのだが、彼の場合は、多くのファンの支持を背景にしたスターの強み、という点で逃げ切っている。

田村良太は、そうではない(大体、彼はまだ「スター」ですらない)
彼の場合、自分を見せ、演技の効果を考える前に、マリウスになりきってしまう。
誇張でも何でもなく、その場の役柄に同化し、激烈な感情に身を任せ、混乱のまま素顔を露呈させる。
だから、彼はここでまず毎回、涙でグズグズの顔になって、正直、かなりみっともない。
これが、同じく涙もろい泉見洋平だと芝居はそうでも録音で聴けば「いかにも、歌」になっているのに比べ、田村良太の場合キチンと歌ってすらいないように聴こえる。

だが、この「歌うより、なりきれ、語れ」というのは、今回の演出方針であるはずだ。
この場のマリウスの結句、エポニーヌ末期の一言を受け取り、「(花、そだ、)......育てる」と歌い納める。
この最後の「育てる」一句。プレ初日にはまだ歌っていたが、後日、まったくのセリフとしてサラリと言い捨てるようになった。
これは他のマリウスも同様だ。
すなわち、「歌うな、語れ」という演出側の指示の結果に相違ない。

今回の演出はショー的側面を排除し、演劇的な写実性に重きを置いている。
これは、アンジョルラスの死がバリケードに引っ掛かった絵面重視の様式性から、荷車に載せられ運び去られる「犬死に感」を強調したドライな描写に変わったことで象徴される。
マリウスの歌唱もそう。
単純に「歌い上げる」ことを極力排し、常にコトバを立たせることに主眼を置いているように私には聴こえた。

田村良太の歌に関して、「硬さが抜けず声に広がりがない」という印象を私は抱くのだが、それは上記の点と裏腹の問題でもあろう。
たとえば、第1幕の終盤「プリュメ街の場」で、「燃える、太陽の矢が胸に飛び込んだ」と歌い出す時、彼のマリウスは咽喉や頬に不要な力が入っているようにも聞こえる。
ただ、これは山崎育三郎も、原田優一も、そうなのである。
その背景としては、この部分に限らずテンポが今回は全体にかなりゆっくりめであることが大きかろう。
私は聴かなかったが、帝劇公演中何回か、普段の若林裕治でなく音楽監督・山口琇也に指揮者が代わったことがあり、その時は全体で5分以上も速くなったという。
これは善し悪しではない。個性の違いである。
今回の公演前、旧演出に基づく日本盤レミゼのライヴ録音CDはすべて絶版になったが、それらを聴いても、過去に速い演奏例はいくらでもあって、レミゼのテンポ設定については多様なあり方が試みられてきたことがわかる。
そして、これは確かに言えることだが、インナーマッスルで胸郭を支える正しい声楽修業をよほど詰まない限り、ゆっくり歌うのは難しい。つまり、速めのテンポのほうが歌い上げやすい。
そして、こうした声楽的な発声法は、マイクを用いるミュージカルではかえってそのまま生かしにくい。

つまり、今回のようにゆったりめのテンポ(おそらく、初演以来最もゆったり、ではなかろうか)だと、田村のみならず山崎も原田も、皆がみな共通して「硬さが抜けず声に広がりがない」ように聴こえてしまうのである。
ただし、原田、ことに山崎の場合は顕著に、こうした「硬さ」はコブシや声の色付けで隠してしまう。それがキャリアを積んだ役者の強みではある。
田村にはその「技」がない。ただ正直に、遅めのテンポに付き合い口を大きく開けるので、生硬感も隠せない。

ここは、居ても立ってもいられないマリウスの恋の情熱を歌う部分。
その焦燥感と、ゆったりしたテンポとは、表面的には噛み合っていない。
その、矛盾に満ちたむず痒いねじれに生ずる、どうしようもない感情の迸り。
この表現こそ「演出の意図」だと解読すれば、コブシや声の色付けで巧みに粉飾できない田村良太のマリウスが、逆説的に最も上出来のマリウスだ、という理会も成り立つのではないか。
少なくとも、3人のうちで一番「チャライ」感じがないのが、彼のマリウスである。

むろん、まだまだ改善すべき点は山積している。

田村良太がまだまだ「日本語の歌の美しさ」に目覚めていないためだろう、何度聴いても耳につくのは、鼻濁音が不完全で、ほかにも発音が汚い部分があること。
先述の「太陽の矢『が』」とか、それに続く「エポニーヌ、君のおか『げ』だよ」とか。
肝腎のナンバー、第2幕「カフェ・ソング」で感極って涙声になると、「砦の寂しい夜明け」が「トイレの寂しい夜明け」に聴こえる、とか。
こうした欠点は「役になりきる」以前のことで、やはり正しく美しく改めるべきである。

だが、そうした瑕疵を帳消しにしても見るべき魅力が、田村良太のマリウスには沢山ある。

第1幕「パリ市内サン・ミッシェル街頭の場」で正面の大道具が二つに割れると、市民たちに決起を呼び掛けビラを配っているマリウスの必死な真摯さ。
コゼットの家をつきとめてほしいと頼み、エポニーヌに「何くれる?」と問われ、「何でも!」とピョンと飛び跳ね、満面の笑顔で対するテンションの高さ。
そうした「一杯になって歓び、悲しみ、生き続ける」マリウス像を何ら粉飾も誇張もなく演じ、歌唱すらその「リアルさ」を表現する手段として機能させているのが田村良太のマリウスの良さであり、新しさであり、そして、正しさ、でもあるのだろう。
そしてそれらは、「ミュージカルとはこうしたもの」とか「マリウスってこういう役柄」という固定観念に縛られたが最後、決して表出できず見出だせない良さ、なのではなかろうか。

ともすると既成の演出、なじみの配役や演目に固執する傾向の強い日本のミュージカルの観客層に対し、おそらく今回新演出の意図を最もよく体現する一人とおぼしき田村良太のマリウスが、どれほど広くアピールできるか。

ご興味の方はこれから11月帝劇凱旋公演まで、彼の舞台を仔細に見て取り、善悪好悪の評価を加えて頂きたいと思う。

2013年8月24日 | 記事URL

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